2009年9月14日

琉球王国の歴史

薩摩による琉球侵攻

その後豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球に助勢を命じたが、琉球は明の冊封国であったため断った。なお、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時、琉球は日本軍に食料を提供している。なお、この時、日本から脅しに近い書状が琉球に送られている。

1609年に薩摩藩の島津氏は、明との交易利権を狙って3000名の兵を率いて琉球への侵攻を決定した。これは、秀吉に代わって天下人となった徳川家康も黙認していた。朝鮮に出兵して以来、悪化していた明との関係を、琉球を通じて改善できると考えたからである(李氏朝鮮とは己酉約条を結ぶなど関係改善が進んでいたが、明は中華思想に基づいて「蛮夷」の日本と対等な関係を結ぶのを拒んでおり、関係改善が思うように進んでいなかった。琉球を通じてという形なら、日本・明の双方の面子を保ちつつ、対等な関係を結べるのではないかと江戸幕府は考えていた)

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗した。しかし、火力で勝り、戦国時代を戦い抜いて戦に慣れていた島津軍にとって、琉球軍は敵ではなかった。

島津軍は3月4日に薩摩を出発すると、3月8日に当時琉球の領土だった奄美大島に上陸、征圧した。3月26日には沖縄本島に上陸、4月1日には首里城にまで進軍した。侵攻開始から、わずか一ヶ月足らずであった。

首里城は城といっても日本の城のように防御と籠城戦向きの設計では無く(むしろ宮殿に近かった)、籠城しても勝ち目はないと判断した尚寧王は和睦を申し入れて開城した。4月5日の事である。

これほどの短期決戦となった理由として島津軍が強かった事もあるが、それ以上に島津が経済的に困窮していた事も理由の一つである。島津は文禄・慶長の役、庄内の乱、関ヶ原の合戦と立て続けに起こった事件で国力を低下させており、長期戦を戦えるだけの財力が無かった。そのため、島津軍は出来る限りの行軍速度で琉球各地を攻略する事を心がけていた(7月まで戦が長引いた場合、島津軍は勝敗とは無関係に撤退する予定であった)。

こうして、王国は薩摩藩の付庸国となり、戦争は終わった。

琉球王国は薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も琉球は、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、薩摩藩直轄地となり分離された。しかし、表面上は琉球の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。


黒船来航
1853年の5月に黒船来航がありアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が来航し首里城に入った。また翌1854年にも来航した。なおペリーはミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領から、武力で抵抗された場合琉球を占領することを許可されていた。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

琉球王国にはこれまでこのような事が起こっていたのですね。勉強になりました。
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